今回は日本語のみで。
相模原障害者殺傷事件以降、津久井やまゆり園や神奈川がその後どうなっているのかと思い、たまに神奈川新聞オンラインサイトであるカナロコ(https://www.kanaloco.jp/)をのぞく僕。
本当は津久井やまゆり園に直接出向いて、花を手向けたいとは思うのだけど、事件以降マスコミが押し掛けるのかどうか、送迎バスもなければ交通の便も悪くなっているという。
神奈川は宮城よりも人口や外国人人口が多いのかどうか、ヘイトスピーチも宮城に比べて多いとか。
僕自身はヘイトスピーチを見たことないが。
というか、発達障害が在日外国人を排撃すれば、それは内輪もめになると思っている。
(『サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめ』とキリストも言っていたが)
だいたい教会の外国人はいい人だと思っているし、彼らに八犬伝をはじめとする日本文化を伝えたいという思いもあるだろう。
『俺たち発達障害者はどうなる?』
という思いもある。
植松聖は最近獄中結婚したという話である。
被害者遺族の一人は
「死刑は間違いだった。生きて向き合って」
というけれど、僕に言わせれば期待しないほうがいい。
むしろ最終的には
「心失者(重度障害者)をかばい続ける被害者遺族や日本社会のほうがおかしい」
という結論になると思っている。(何度も言ったか)
早晩執行を受けるだろうが、おそらく被害者遺族や日本社会全体までも呪いながら吊るされると思っている。
マルティン・ニーメラーの思いなんてのもあるが、所詮それも、届かぬ人間には届かないということだろう。
宅間守の獄中手記を見ても、親への責任転嫁、自己弁護、卑屈な思いしかなかったし。
社会というのが寄せ集めの人間から成り立っている以上は、ほんのちょっとしたとっかかりだけで、仲たがいが起きたり、憎み合うようになってしまうということだろう。
NPO法人「ほっとプラス」の藤田孝典氏は
「共生社会は『生易しくない』が面白い」
というけど、これも人によってはどうとるやら。
(『世迷い言』と嘲笑する人間も多かろう)
『どっちかが肥えれば、どっちかが干からびる』
というゼロサムで考えている人間も少なくなかろう。
『持ちつ持たれつ』
は裏返すとウィンウィンの関係になるということだが、それができるかどうかが共生のカギになるのではないかと思う。
何をもって『持ちつ持たれつ』とするのか、お互いが調整し歩み寄る必要はあるだろうけれど。

